カレーではない何か(2)
ハヤシライスについて、説明する機会はほとんどない。
これは何料理なのか。
どこの国のものなのか。
なぜこういう名前なのか。
そう聞かれた記憶が、あまりない。
食べているのに、語られない。
この時点で、少しおかしい。
答えが決まらなかった料理
ハヤシライスの由来には、いくつも説がある。
人の名前だという説。
「林」から来たという説。
英語の「hashed」から来たという説。
どれもそれなりに筋は通っている。
だが、どれも決定打にならなかった。
重要なのは、
どれが正しいか、ではない。
どれも正しいと決められなかったことだ。
説明しなくても、困らなかった
多くの料理は、説明される。
インドカレーには背景がある。
欧風カレーには物語がある。
ビーフシチューには格式がある。
料理は、語られることで立場を持つ。
ハヤシライスだけが、その輪から外れている。
なぜか。
説明しなくても、困らなかったからだ。
どこから来たかを知らなくても食べられる。
何料理か分からなくても成立する。
違いを理解しなくても、日常に置ける。
正体を知らなくても、支障がなかった。
定義されなかったことが、完成だった
これは欠落ではない。
選ばれた状態だ。
定義しない。
境界を引かない。
名乗らない。
その代わり、
誰の食卓にも入り込める。
補足しておくと、
ハヤシライスは日本で生まれ、日本で形づくられた料理だ。
明治期の洋食を起点にしながら、
家庭に入った瞬間、
説明を必要としない方向へ進んだ。
市販ルウの時代になると、その性格は固定される。
箱には詳しい来歴は書かれない。
用途だけが示される。
作り方は分かる。
正体は分からない。
それで十分だった。
答えがないから、
議論にならない。
論争にならない。
正しさを競わなくていい。
ハヤシライスは、
定義されなかったことで完成した料理だった。
次回は、
材料がほとんど同じ料理の話をする。
それでも、
決定的に分かれた理由について。




